2007年02月17日

わたしと新潟 栗林 貞一

栗林 貞一 氏画像
わたしと新潟 栗林 貞一

栗林 貞一(くりばやし ていいち)氏 略歴
1933年新潟市で生まれる。1955年東京大学卒業・運輸省に入る。1981年航空局飛行場部長。1985年運輸政策局長。1986年海上保安庁長官。1989年日本航空(株)に入り、1993年同社副社長。1997年日本アジア航空(株)会長。2001年から同社特別顧問。ほかに、(社)日本物流団体連合会会長・現在名誉顧問・日華文化協会会長・(財)航空保安施設信頼性センター会長等。 東京在住。

私は新潟市に生まれ、育った。
家が信濃川に近く、小学生の頃時々岸壁に腰かけて魚釣りをしたのが懐かしい。
旧制の新潟中学校に入ったのが昭和20年終戦の直前。その後学制も大きく変わり、そのまま6年後には新制の高校を卒業していた。
大学は東京で以後生活の中心は東京に移った。
新潟には両親がいて、私は「ひとりっこ」なので、年に何回かは帰省し、高校時代の友人達と楽しい夜を過ごしたりした。
大学を出て運輸省に就職し、内閣官房や兵庫県警に出向したこともある。

仕事の上でも新潟との接点はいくつかあった。
短期間ながら新潟陸運局勤め、新潟空港の滑走路延長問題、はじめての日本航空のハワイチャーター便等々。中でも印象に残るエピソードを一つ紹介しよう。

昭和62年海上保安庁長官をしていたとき、景気対策として総合経済対策なるものが策定されることとなった。
私はこの機会に、内需拡大にも寄与する巡視船などの増強を図ろうと考えた。政府部内での折衝の結果、大型巡視船の建造がほぼきまった頃、配置場所で厄介な問題がおきた。
折しも不審船などで日本海の波風が立ってきた頃だったので、この船を日本海側に配置しようということには異論がなかった。
しかし新潟におくか山陰地方の境港におくかが問題であった。
境港については地元の県や漁業協働組合などは勿論、鳥取、島根両県選出の国会議員全員から猛烈な誘致運動があった。

私は新潟市当局等には普通の陳情、要望をするのは当然だが、政治家に頼みこむことはしないようにと強く申し上げた。
政治家の話合いできまるとなると、空中戦となって、本筋をはずれ、行政の公正さが失われるおそれがあると思ったからだ。
海上保安庁内部で慎重に、公正に検討した結果、新潟に決めた。
それが現在も第九管区海上保安本部で新潟に配属されているヘリコプター搭載大型巡視船「えちご」(3200トン)である。
私が新潟生まれであることは多くの人が知っているので一層公正な判断が求められると思った。
それとふるさとの発展を願う気持。何とか二つの思いがかなえられほっとしたものだ。

新潟市はまもなく政令指定都市に昇格し、いよいよ新しく、大きくスタートする。サポーターズ倶楽部としても、この際新潟市の発展のためにみんなで一肌脱いで頑張らなくてはなるまい。

ヘリコプター搭載大型巡視船「えちご」 海上保安庁提供
ヘリコプター搭載大型巡視船「えちご」 海上保安庁提供