2010年12月06日

わたしと新潟 DESIGN CARD

新潟市デザインポスター / 池田 美代子 & kitazawa-office

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2010年11月19日

わたしと新潟 DESIGN CARD

新潟市デザインポスター / 白鳥 十三 & kitazawa-office

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2009年04月07日

わたしと新潟 松本 伊三男

松本 伊三男 氏画像
わたしと新潟 松本 伊三男

松本 伊三男(まつもと いさお)氏 略歴
1933年新潟市秋葉区生まれ。一級建築士事務所「松本建築設計室」所長。「(有)エム建築コンサルタント」代表取締役。長年、建築設計・積算実務に携わる。また、積算教育の先達として専門学校(25年間)・通信教育の講師を勤める。現在も講師として活躍中。平成10年建設省住宅局長章受賞。著書・講演多数。- 主な業績(積算躯体)- 品川パシフイックホテル 東京都庁第二本庁舎 江戸・東京博物館 新宿駅ルミネ JR東海品川駅

私は現在「新潟県立新津高等学校同窓会」の東京支部長をやっています。経歴は「昭和8年生まれで戦中、戦後の混乱期を新潟で過ごし、高校卒業を期に上京して現在に至る」となりますので新潟で19年、東京で56年を過ごしたことになります。
高校の3年間は、汽車通学(荻川駅⇔新津駅)で秋葉山の中腹に建つ新津高校までの坂道を、下駄履きで通学したことが鮮明に想い出されます。昭和27年に上京しましたが、知人や友人も少ない貧乏学生でしたので、東京での生活は厳しく、実家からお米や雑貨など送ってもらったことなど、一生忘れることが出来ません。

今回は新津高校同窓会と東京圏で活躍している同窓生で構成している東京支部の活動等についてご紹介させて頂きたいと思います。
戦後の初期までは同窓会や同期会などは盛んに行われていました。しかし、現在は同期の絆も希簿になり、少なくなっているようですが、新津高校は本部同窓総会を毎年、東京支部同窓総会は隔年ごとに開催し、本部会報と支部会報も総会の開催に合わせて発行して、同窓生の親睦を図っています。

本校には他校にない秋陵会館(同窓会館)があり、在校生のクラブ活動(茶道、花道、琴、料理など)の場として利用され、また同窓会の事務局、会議室も常設されています。この会館は同窓生の寄付で新築された立派な建物で、地元の同窓生(建築設計事務所)が設計し、私が東京在住のまま、プロジクトマネージャー(建設委員長)として纏めた会館です。
また、東京支部は各種のサークル活動などで会員の親睦を図っていますが、近年、会員の多数が「新潟市サポーターズ倶楽部」に入会しましたので、サポーターズ倶楽部も東京支部会員の「親睦の場」にさせていただきたいと願っております。

私は一級建築士で建築積算士です。建築士については、よくご存知と思いますので積算士について簡単に説明します。積算士とは建物の工事費(予算)の算出及びコスト管理をする仕事です。一般の人には、なかなか業務内容を理解して頂けないので、私は以前に建設省局長章を受賞した際に「積算士は建築の弁護士である」と書いたテレホンカードを作成し、皆様にお配りしましたら、「建築積算」という業務を多少はご理解して頂けたようでした。

積算士は全国で約15,000名いますが、私は、この人達のレベルアップのための講師として新潟市にも年2回くらい行っていました。現在でも公と私で年に4回くらい新潟に行きますが、前の晩はなかなか寝付かれず、新幹線の中は就眠の場所となっています。
新潟は最近あまりにも近く、少し物足りない感じです。新潟の想い出は語り尽くせないほどありますが、私の実家から19年間眺めた五頭連峰の優しい風景は、いつまでも懐かしい私の故郷です。

新潟県立新津高等学校 秋陵会館画像 / 撮影:布施 幸雄氏
新潟県立新津高等学校 秋陵会館:写真提供 新潟市在住 布施 幸雄氏

2009年03月01日

わたしと新潟 DESIGN CARD

わたしと新潟 / Photo,Designed by kitazawa-office

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2009年02月01日

わたしと新潟 関口 智子

関口 智子 氏画像
わたしと新潟 関口 智子

関口 智子(せきぐち ともこ)氏 略歴
ヴァイオリニスト。新潟市出身。才能教育新潟支部にて田沢毅氏に師事。新潟県音楽コンクール最優秀賞受賞。桐朋学園大学音楽学部演奏学科を卒業。NHK交響楽団首席の山口裕之氏に師事。英国王立音楽大学にて演奏家資格取得後、英国・新潟・東京にてリサイタル開催。また、日英の文化祭で自ら撮影した新潟の写真を紹介したコンサートが、日英新聞各社の取材を受ける。2000年ロンドンにてビデオ作品「オクサリス~幸せを運ぶ花」を制作発売。2008年長岡でコンサート開催。新潟・東京・大阪にてリサイタル開催。

「おあげなさいましたか」
柔らかな響きを持つこの言葉の意は、「ご飯はもう食べましたか?」です。
新潟で育った私にとって、この言葉は「故郷」という土地の記憶を新鮮に蘇らせてくれます。

4歳でヴァイオリンを始めた頃は、公園で遊んでいるほうが楽しく、特に「海浜公園」にあるお城の滑り台が大のお気に入りでした。また、ガールスカウトに入り、自然の中でキャンプをしたり、古町のデパート前で「赤い羽根共同募金」をしたりと活動的な子供でした。

「あなたはヴァイオリン弾きではなくて、芸術家になりなさい!」
ロンドンの師匠より頂いた嬉しい言葉です。なぜなら私の父もまた芸術家であったからです。彫刻家 関口昌孝の作品は新潟にいくつかあり、帰省した時は父の作品を見に行きます。特に、新潟市音楽文化会館前の「竪琴を抱く女神像」の前に立つと、父が「おかえり」と言ってくれているような錯覚を起こしてしまいます。

父も新潟を愛し、スケッチに出掛ける際には、私を連れて行ってくれたことも多々ありました。「じゅんさい池」や、今はもう無い「ベトナム池」にも行きました。
亡くなる2年前には、新潟市の市長の手紙を持って、母と共に私のいるロンドンに来てくれました。新潟市と姉妹都市である、キングストン・アポン・ハル市の市長に手紙を渡すとのことで、私たち家族はハル庁舎へ赴き、ハル市長ご夫妻、文化担当の方々の手厚い歓迎を受けたのでした。
さらに市長は「新潟にも港がありますね、これから私達の港へご案内しましょう」と私たちをロールスロイスで連れ出してくれました。
「姉妹都市」という言葉がぐっと身近に感じたられた経験でした。

さて私のライフワークは、「新潟でリサイタルを続ける」事です。2008年のリサイタルは14回目となりました。「新潟」は初心に戻り、再び「芸術家魂」に灯を点けてくれる場所なのです。
私を育ててくれた故郷「新潟」に感謝し、人々の心に響くような音楽を演奏しつづけていきたいと思っています。

関口 智子氏画像

2007年10月13日

わたしと新潟 DESIGN CARD

新潟市デザインポスター / 中村脩 & kitazawa-office

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2007年08月10日

わたしと新潟 太田 塁

太田 塁氏画像
わたしと新潟 太田 塁

太田 塁(おおた るい)氏 略歴
文筆家。1973年生れ。青山学院大学卒業、法政大学大学院修士課程修了。大学院在籍中より専門誌で活動。音楽評やコラム、美術評などを執筆する。心の問題から文化論、社会問題など広範な関心領域を持つ。(社)産業カウンセラー協会会員。産業カウンセラー。共著に『何のために生き、死ぬの?―意味を探る旅』(地湧社)。 写真撮影=中村博臣

東京生まれの父が育った新潟。その「ふるさと」は、新潟を離れた父の 子である私や弟が、夏休みの度に虫かごを持って訪れ、よく冷えたスイカに齧りつき、冬にはいささかしみじみとしていても、夏には、浸食されてはいるが長く横たわる灼けつく砂浜を駆け回り子供らしく戯れる、所謂「田舎」ではなかった。
 何も、父と新潟の関係に溝があった訳ではない。明治男の祖父は、その子らが故郷に止まることなく、日本へ、そして世界へと飛び出すことの方を良しとした、開明派の人だった。だからなのか、振り返って、父を先頭に両親に連れられて新潟を訪れた記憶は、数え上げても五回に満たない。無論、物心つかぬ頃の記憶は頭数には入れない。

 海外生活も経験した。転校はしなかったが、地元の学校には進学しなかった。だから、もし故郷と呼べる場所が、ともに遊び、ともに学び、時には取っ組み合いをして、それを後年肩叩き合って笑いながら今でも語り合える幼なじみのいる場所だとするならば、私には故郷がない。私は、故郷を持たなかった望郷者である。

 では、新潟を故郷にも「田舎」にもできなかった私にとって、かの地との縁(ゆかり)はどこにあるのだろう。たった数度しか訪れなかった新潟。小学生の頃。昔ながらの日本家屋を、時代の移り変わりとともに増改築した祖父母の家は、通りの一番奥に鎮座していた。諏訪神社から、執拗に蝉の啼き聲が届く距離。都会のマンション暮らしでは見たこともない仏壇や床の間があり、あの日、私はまずご先祖への挨拶をさせられた。慣れない大人の風習を終えて、我先に冷たい麦茶を飲もうと座った上座は、当然家長たる祖父の指定席。年端もゆかない私は、静かに、厳かにたしなめられたが、嫌な気はまったくしなかった。大人として扱われた気がした。祖母は、決して孫たちと食卓を囲むことはなかった。明治男の妻の奥ゆかしさ。それを、制度と換言したくはない。

 祖父と呼ぶには、すでにあまりに年老いていた祖父は、その長身痩躯、伊達で粋な雰囲気の中に、確かな威厳をたたえ、幼い私たち兄弟を側に据えて、様々な昔語りをしてくれた。幼い弟は、飽きて寝てしまったが、私は、この古式然としたしきたりを現代まで守りながら老い続ける「絶滅種」の美しさに、幼心に痺れ、いつまでも耳を真摯に傾けていたからよく可愛がられた。

 頑なで、古めかしくて、利便性のない「絶滅種」は、やはり最期には己の美学を貫き通すことはできなかった。貫かないで滅びることが、あるいは美学だったのかもしれない。映画『山猫』の、バート・ランカスターのように。

 繙けば、いつも童心の父が、我々が止めるのも聞かずに、新潟の家から海まで海水パンツ一丁ででかけようと言い出し、「昔はこんなして海にいったもんだ」と嘯いたものの、現代人を満載したバスから好奇の目で眺められ、一同顔を赤らめたこと、歴史的事情でもともと親戚の少ない母方の故郷と比べ、ひとたび新潟を訪れれば、これまた経験したことのなかった親戚廻りをして、名前しか知らなかった縁者との出会いを果たしたこと、老舗旅館『のとや』の名物女将が父の叔母だったから、ここに足を踏み込むと、女剣劇の口上よろしく威勢と気っ風の良い台詞まわしで、大志抱くべき少年たる我々兄弟はえらく発破をかけられたことなど、思い出すこともないでもない。

 しかし、私にとって新潟という場所がなんであったかをふたたび自らに問うてみる時、それはいくつかの懐かしい想い出にまつわる場所では断じてなく、新潟の祖父母を拝まざれば、決してこの身にかくも深く刻み付けられる機会は得られなかったであろう、「“家”という旧制度だけが持っていた美意識」を放射する聖地であったような気がする。

 マイホーム幻想は、やがて家庭不在、家族離散を招いてしまった。と、使い古された感のある言葉をここに書き加えてみたとき、確かに絶滅する運命であったにしても、残すべき理はあったあの峻厳たるしきたりが、少なくとも私の中に生きていて、幸い、私の家族は、頑なではないにしても、不在ではないし離散もせず、新たな血を加えながら、相変わらず結束している。この絆がほころびそうなときには、おそらくあの美意識が蘇ってふたたび繕い、そのたびに新潟は私の故郷へと近づいていくのだ。