2007年08月10日

わたしと新潟 太田 塁

_DSC01001.JPG

●わたしと新潟 太田 塁


太田 塁(おおた るい)氏 略歴

文筆家。1973年生れ。青山学院大学卒業、法政大学大学院修士課程修了。大学院在籍中より専門誌で活動。音楽評やコラム、美術評などを執筆する。心の問題から文化論、社会問題など広範な関心領域を持つ。(社)産業カウンセラー協会会員。産業カウンセラー。共著に『何のために生き、死ぬの?―意味を探る旅』(地湧社)。 写真撮影=中村博臣


東京生まれの父が育った新潟。その「ふるさと」は、新潟を離れた父の 子である私や弟が、夏休みの度に虫かごを持って訪れ、よく冷えたスイカに齧りつき、冬にはいささかしみじみとしていても、夏には、浸食されてはいるが長く横たわる灼けつく砂浜を駆け回り子供らしく戯れる、所謂「田舎」ではなかった。
 何も、父と新潟の関係に溝があった訳ではない。明治男の祖父は、その子らが故郷に止まることなく、日本へ、そして世界へと飛び出すことの方を良しとした、開明派の人だった。だからなのか、振り返って、父を先頭に両親に連れられて新潟を訪れた記憶は、数え上げても五回に満たない。無論、物心つかぬ頃の記憶は頭数には入れない。

 海外生活も経験した。転校はしなかったが、地元の学校には進学しなかった。だから、もし故郷と呼べる場所が、ともに遊び、ともに学び、時には取っ組み合いをして、それを後年肩叩き合って笑いながら今でも語り合える幼なじみのいる場所だとするならば、私には故郷がない。私は、故郷を持たなかった望郷者である。

 では、新潟を故郷にも「田舎」にもできなかった私にとって、かの地との縁(ゆかり)はどこにあるのだろう。たった数度しか訪れなかった新潟。小学生の頃。昔ながらの日本家屋を、時代の移り変わりとともに増改築した祖父母の家は、通りの一番奥に鎮座していた。諏訪神社から、執拗に蝉の啼き聲が届く距離。都会のマンション暮らしでは見たこともない仏壇や床の間があり、あの日、私はまずご先祖への挨拶をさせられた。慣れない大人の風習を終えて、我先に冷たい麦茶を飲もうと座った上座は、当然家長たる祖父の指定席。年端もゆかない私は、静かに、厳かにたしなめられたが、嫌な気はまったくしなかった。大人として扱われた気がした。祖母は、決して孫たちと食卓を囲むことはなかった。明治男の妻の奥ゆかしさ。それを、制度と換言したくはない。

 祖父と呼ぶには、すでにあまりに年老いていた祖父は、その長身痩躯、伊達で粋な雰囲気の中に、確かな威厳をたたえ、幼い私たち兄弟を側に据えて、様々な昔語りをしてくれた。幼い弟は、飽きて寝てしまったが、私は、この古式然としたしきたりを現代まで守りながら老い続ける「絶滅種」の美しさに、幼心に痺れ、いつまでも耳を真摯に傾けていたからよく可愛がられた。

 頑なで、古めかしくて、利便性のない「絶滅種」は、やはり最期には己の美学を貫き通すことはできなかった。貫かないで滅びることが、あるいは美学だったのかもしれない。映画『山猫』の、バート・ランカスターのように。

 繙けば、いつも童心の父が、我々が止めるのも聞かずに、新潟の家から海まで海水パンツ一丁ででかけようと言い出し、「昔はこんなして海にいったもんだ」と嘯いたものの、現代人を満載したバスから好奇の目で眺められ、一同顔を赤らめたこと、歴史的事情でもともと親戚の少ない母方の故郷と比べ、ひとたび新潟を訪れれば、これまた経験したことのなかった親戚廻りをして、名前しか知らなかった縁者との出会いを果たしたこと、老舗旅館『のとや』の名物女将が父の叔母だったから、ここに足を踏み込むと、女剣劇の口上よろしく威勢と気っ風の良い台詞まわしで、大志抱くべき少年たる我々兄弟はえらく発破をかけられたことなど、思い出すこともないでもない。

 しかし、私にとって新潟という場所がなんであったかをふたたび自らに問うてみる時、それはいくつかの懐かしい想い出にまつわる場所では断じてなく、新潟の祖父母を拝まざれば、決してこの身にかくも深く刻み付けられる機会は得られなかったであろう、「“家”という旧制度だけが持っていた美意識」を放射する聖地であったような気がする。

 マイホーム幻想は、やがて家庭不在、家族離散を招いてしまった。と、使い古された感のある言葉をここに書き加えてみたとき、確かに絶滅する運命であったにしても、残すべき理はあったあの峻厳たるしきたりが、少なくとも私の中に生きていて、幸い、私の家族は、頑なではないにしても、不在ではないし離散もせず、新たな血を加えながら、相変わらず結束している。この絆がほころびそうなときには、おそらくあの美意識が蘇ってふたたび繕い、そのたびに新潟は私の故郷へと近づいていくのだ。