2007年05月16日

わたしと新潟 中村 弘之

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●わたしと新潟 中村 弘之


中村 弘之(なかむら ひろゆき)氏 略歴

1951年茨城県ひたちなか市に生まれる。1975年東京大学卒業、日本国有鉄道入社。1983年新潟鉄道管理局総務部人事課長。1987年東日本旅客鉄道(株)人事部(国鉄清算事業団出向)。1988年新潟支社総務部長。本社事務企画室長、東北地域本社総務部長、営業部企画課長などを歴任し、1998年事業創造本部(ガーラ湯沢 代表取締役社長出向)。その後、厚生部長を経て2003年理事新潟支社長。2005年6月から取締役東京支社長。東京在住。


昭和50年、国鉄入社後、3週間の研修を経て「新潟鉄道管理局勤務を命ず」の辞令をいただき、特急「とき」で初めて新潟駅に降り立ちました。これが長く深い、新潟との縁の始まりでした。以来、今日に至るまで五度、通算11年半に及ぶ新潟勤務となり、その都度いろいろと貴重な経験をし、学んできました。鉄道人生で言えばまさに「新潟育ち」の私にとって、格別の想いと愛着のある地、それが新潟です。

新潟生活の1回目は昭和52年までの2年間でした。南万代小学校の南側の国鉄独身寮に入り、新潟駅をはじめ、操車場、運転所、保線、電力、信号通信など、あちこちの職場を転々としつつ、国鉄が様々な現場・職種の連携で成り立っていることを実体験で学びました。

2回目は昭和58年秋から60年春までの1年半、国鉄末期の改革のうねりが始まるときでした。新潟鉄道管理局人事課長として、経営再建のための効率化の推進に当たりました。貨物駅の集約や魚沼線、赤谷線の廃止もその頃でした。家内と5歳、2歳、0歳の三人娘を連れて幸西の社宅に入りました。

3回目は民営化翌年の昭和63年から平成3年までの3年間、JR新潟支社総務部長を務めました。家族も2回目の新潟生活でした。仕事では、グループ会社との協議会設立や支社の子会社「トッキー」の設立など、他支社に先駆けたフレーム作りや、GALA湯沢スキー場計画の推進に当たりました。これらの事柄が実現したのは、一つの方向に向かい、真面目に最後まで頑張りぬくという新潟人の素晴らしさと、これまでの二度の勤務の中で「絆」の出来た新潟の皆さんが、大きな力を出してくれたこと、これらが大きな要素でした。県のイメージアップ推進構想の検討に参画したり、「ゴルバチョフを呼ぶ会」に参加したりと、私の世界も鉄道から地域へと拡がってきました。

4回目はGALA湯沢スキー場の社長として、平成10年から3年間、越後湯沢での単身赴任でした。スキー人口減少の中でしたが、当時はあまり他になかった大規模スノーボードパークの設置、初心者層への「上達保証付レッスン」や上級者層への「スペシャルデモレッスン」など、話題性ある施策を実施したことなどが奏効し、マスコミやスキー経営誌の取材も増え、お客様も増加基調を保ちました。湯沢町温泉観光協会の副会長も務め、協会幹部の人たちと一緒に、町内で頭を下げながら祭りの寄付集めをしたのもいい思い出です。

そして5回目。平成15年からJR新潟支社長として2年間勤めました。「JRは運輸業だけど、同時に旅行需要製造業、情報発信業。地域の人たちと地域の魅力に磨きを掛け情報を発信することも大切な仕事。駅長は地域に入ろう。」と呼びかけました。新潟市の交流産業創造の検討にも参画しました。また、中越大震災も経験しました。JR各線も大きな被害を受け、新幹線脱線という衝撃的な事象もありましたが、お客様の死傷者がなく、また、社員・協力会社の不眠不休の頑張りで、復旧・開通にこぎつけた時の感動は今も鮮明です。改めて新潟の人たちの持つ真の強さを感じました。

これらの新潟での経験を通じて、感じていることに少し触れてみたいと思います。

新潟の第一印象は彩りと広がりでした。昭和50年当時、新潟市内にはまだ新潟地震の爪跡が多く残っていました。しかし、暗さはなく、寺尾にあった新潟遊園のチューリップの色、佐渡島に沈む夕陽の色、夏の日本海の透明な水色、弥彦山頂から眺める蒲原平野に広がる水田の初夏の鮮やかな緑色と秋の黄金色… 私には新潟の彩りが鮮烈でした。また、万代橋から下流方向を見ると右手にキャバレー香港の丸屋根、左手に佐渡汽船。そして信濃川の流れ、空の広がり。「アイラブユー新潟」の歌詞に「万代橋で見る港 アイラブユー新潟」というくだりがありますが、私も大好きな新潟の光景でした。万代橋で見る港は柳都大橋に遮られましたが、海岸でも、やすらぎ堤でも、山頂でも、新潟の広がりは今も心を爽やかにしてくれます。

新潟の食、すばらしい魅力です。酒、米、魚はもちろん、果物も野菜もおいしいです。中でも野菜の魅力、これは東京ではあまり知られていない部分です。ナスでもたくさんの品種があり、それぞれにおいしい料理方法があることは新潟へ来て初めて知りました。白山市場で買う女池菜は新鮮で硬からず柔らか過ぎず、ほんのりとした甘さが絶品です。黒崎茶豆は全国区になってきていますが、一人娘、いうなよ、肴豆…、名前の謎解きも楽しそうな枝豆の品種の多さは、新潟ならではのものです。

そして新潟の魅力は人です。湊町の伝統でしょうか、よそから来る人もすぐに溶け込める雰囲気があります。居心地のよさを感じる付き合いができます。いったん出来た付き合いは、ずーっと続きます。昭和50年当時の寮生仲間とは、30年を過ぎた今も、恒例の旅行会が毎年続いています。また、グルメを楽しんだり、アスパラを摘んだり、日本酒を学んだり、スキーに行ったり、小さな旅をしたりと、魅力的な新潟の人たちとのいろいろな楽しみを通じての交友も広がりました。私にとっての「宝物」です。

仕事では新潟を離れましたが、故郷の暖かさを感じる町、ほっとする町、わくわくする町、すばらしい人たちと会える町。政令市になりさらに魅力を増した町。新潟は私にとっていつまでも特別の想いを寄せる町であり続けるでしょう。

アイラブユー新潟。そしてアイラブユー新潟の人(しょ)。

東京にあっても、何か新潟のお役に立てればと、いつも思っています。